目の前を通り抜けた男の後姿に、ライルははっと息を呑んだ。
艶やかで美しい、アメシスト色の髪。
トレミー内でその色を纏っているのは彼だけだ。
閉じていた唇が一瞬だけ開く。
けれど、声が出ることはなかった。
自分は何を言うつもりなのか。
この間は悪かったと、言い訳でもするつもりなのか。
ライルは苦笑しながら小さく首を振った。
そんなみっともない真似が自分にできるとは思えない。
ティエリアを抱いたのは紛れもない事実だったが、それは双方の合意があっての事だ。
決して無理強いはしていない。
自分がティエリアに何かを言い繕う必要など全くないのだ。
それなのに。
自分の中に生まれるこの靄は何なのだろう。
得体の知れない澱のようなものが、心の奥底にずっしりと沈殿している。
暗い眼差しでティエリアを見送ったライルは、胸の内側に巣食う得体の知れない感情を持て余すように、きつく唇を噛み締めた。
焼け付くような眼差し。
それを背後に感じながら、ティエリアはガイドバーからゆっくりと手を離した。
僅かな重力に引かれ、廊下に足が着く。
あの瞳は何なのだろう。
ここ数日感じる、ライルの視線。
ニールと同じ色の瞳は、何かを訴えるように自分ばかりを見つめている。
今もそうだ。
背中に突き刺さるような視線は、一瞬たりとも反らされることがない。
まるで縋るように、こちらを一心に見つめている。
その場に佇んだまま、ティエリアは目を閉じた。
こんな視線は知らない。
彼が与えてくれたのは、何時だって穏やかで優しい眼差しだけだった。
ふわりと包み込まれるような、温かな瞳。
こんな風に、まるで飢えたような目で見られることなどなかった。
だからなのだろうか。
酷く居心地が悪いような、居た堪れないような気分になる。
何故、と問いかければいいのだろうか。
けれど、その言葉を口にした途端、自分が何かを失ってしまいそうな気がする。
ティエリアは小さく息を吐き出しながら、宙に浮いたままの両手をぎゅっと握り締めた。
廊下に降り立ったティエリアを、ライルは身じろぎ一つしないまま、じっと見つめていた。
何かがせり上がってくるような気がして、慌てて呼気を飲み込む。
冷ややかで恬淡とした表情を崩さないティエリアは、ライルの事などまるで目に入らないかのように行動する。
ミッション中はその限りではなかったが、プライベートにおいて彼がその姿勢を崩すことは一切なかった。
ティエリアは、最初から自分に対する態度を一貫させてきている。
つまり、ガンダムマイスターとしてのライル・ディランディを認めてはいても、ロックオン・ストラトスとしての地位は認めないという姿勢だ。
他のクルーからは、概ね好意的に受け容れられていると思う。
勿論、彼らの中にも複雑な思いがあるのかもしれないが、少なくとも表面上はそれを口にしたりしない。
だが、ティエリアだけは違った。
最初から、ニールとライルは全くの別人だと、どれだけ似ていようと異なる人物なのだと態度にも口にも出していた。
そして、自分の姿を視界には入れても、心の中には決して入れてくれなかった。
ただそこに居るモノ。
あからさまにそう言っているような気がした。
それが、何故自分の目の前で立ち止まったりするのだろう。
ほんの少し声を上げれば届く距離。
そこでどうして止まったりするのか。
無視するくせに。
自分の存在を、歯牙にもかけないくせに。
引き絞られるような胸の引き攣りに、ライルははっと我に返る。
こんなのは違う。
自分には目的があるのではなかったか。
マイスターとして、ソレスタルビーイングに入った理由。
それを思い出せ。
逡巡した後に、ティエリアは再びガイドバーに掴まった。
振り返ろうかと思ったが、そうしたところで自分に何ができるだろう。
ライルに声をかける義理はなく、また声をかけたところで自分が何を言うべきなのかが全く分からなかった。
彼と会話するのは、ミッションの中でだけだ。
それ以外に言葉を交わす必要などない。
そう考えると心が少しだけ落ち着いた。
彼の視線に何かを感じるなど、思い違いもいいところだ。
自分とライルとの間には、何もありはしない。
一度身体を繋げたくらいで生まれる何かがあるとは思えなかった。
「ロックオン」
ごく小さな囁きは、耳に馴染んだ音だった。
何度もこの名前を呼んだ。
ベッドの中でも。
ライルはロックオン・ストラトスではない。
そう名乗るのは構わないが、ティエリアの中のロックオン・ストラトスはたった一人だ。
それが変わることなどありはしない。
落ち着きを取り戻した自分を自覚すると、ティエリアは背後からの視線を振り払うように前に進んだ。
振り返ることなどない。
彼の姿を視界に入れる必要などない。
確かに立ち止まったはずのティエリアは、やがて何事もなかったかのように視界から消えた。
その途端、何故か酷い眩暈を感じて、ライルは壁に身を預けた。
拳で強く壁面を叩くと、篭った音が辺りに響いた。
それが、自分を嘲笑しているように聞こえて、ライルは強く目を閉じる。
たった一度の快楽が、正常な思考の邪魔をしているのだろうか。
そんなおかしな感傷に浸っている暇などないというのに。
自分が求めるのは、もっと違うものだったはずだ。
その為の身代わりではないか。
「ロックオン」
小さく呟いてみる。
それが今の自分の名前だ。
自分にとってのロックオン・ストラトスとは、あくまでマイスターの名称でしかない。
記号と同じだ。
自分がそう呼ばれることに、何の感慨もない。
そうだ、今の自分はロックオン・ストラトスだ。
自分だけが、そう呼ばれるのだ。
誰もいなくなった廊下で、ライルは小さく笑い声を上げた。
ひび割れたその声は、ティエリアに届くことなく宙に消えていった。
【あとがき】
2008年10月29日
二期も4話まで進みました。
で、例のキスシーンです。
フェルトにキスするロックオン。
実際に口を重ねている絵がなかったせいか、それほど衝撃はありませんでした。
それより気になるのは、キスした後のライルの言葉・・・!
それを聞いて、色んな意味で達観してたニールより、ライルの方がよっぽど縛られているんだろうな〜って感じました。
ダークサイドを見てきて、それでも信念を曲げなかったニールの方が、ずっと強いんだと思います。
ライルの弱さを垣間見て、益々彼が好きになりましたよ(≧ロ≦)
最初からライルに対しては好意的だったんですが、やっぱりニールとは別の人物として大好きだと思いました。
このSSは、そんなライルのうじうじ加減を意識して書きました。
いちいち「俺がロックオンだ!」って口に出さないと、自分の存在価値を見失いそうなんじゃないかなぁとか。